Emotional inheritance

今日は愛するWaterstone(イギリスに展開するカフェが併設された本屋さんです^_^)で見つけた本を紹介します。

 

Galit Atlas博士による著書「Emotional inheritance」です。医学書・心理学コーナーで偶然見つけて、タイトルに惹かれて購入しました。

 

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直訳すると、「感情的遺産」

 

この本のキーワードは、トラウマです。

 

本書はテーマごとに章に分かれていて、各章で患者さんとの会話を通じて、世代を超えるトラウマの存在とそれが今を生きる個人に与える影響を大きな枠組みで捉え、その謎に迫っていきます。

 

トラウマという言葉を定義するのは難しいですが、ある人の考え方やあり方に大きな影響を長期的に及ぼすネガティブな感情的経験と私は理解しています。

 

生きていれば、色々なことが起こります。天災・人災に関わらず、心理的な安全を脅かす出来事に対して私たちの心は反応します。化学のように10g, 20gの変化と定量化することはなかなかできませんが、その出来事を経験した人の考え方や行動に何かしらの影響を与えていきます。そして、その影響が時に人に苦しさを与え、生きづらさを作り出す原因となることがあります。

 

ここで、考えたいのが、ひとりの個人が経験したことが与える心理的影響は、その人独自のものであって1世代で完結するものではないのか?ということです。

 

そうではない、トラウマが及ぼす影響もDNAが生物学的に世代を繋ぐように、心理的に世代を貫いていくと主張するのが本書です。

 

私たちの体を作る設計図とも呼べる遺伝子は、親から子へと引き継がれていきます。お父さんとお母さんから精子卵子を通じて1対ずつ、各23本の染色体をもらって、受精卵は46本の染色体を持っています[1]。

46本の染色体

(染色体の数が必ずしも46本ではない人もいます。ダウン症候群の人は21番目の染色体を1本多く持っていることが知られています。)

 

私たちは(じっくり考えると奇跡のようですが)受精卵から分裂を繰り返して約10ヶ月間母親の胎内で発達し、個体として生まれます。

 

私たちの体は多くの細胞からなっているわけですが(70兆とどこかで読んだことがありますが、ほんまかいなっ笑)、どの細胞も受精卵からできた娘細胞であり、同じDNAを持っていることになります。

 

DNAはDeoxyribonucleic acidの略で、アデニン、チミン、グアニン、シトシンという4つの塩基とデオキシリボースという糖がくっついてパズルの1ピースのようになっています。DNAの塩基はペアを形成します。アデニンはチミンと、グアニンはシトシンとペアとなって安定的な構造を形成します。[2]

DNA structure

2本のDNAの鎖が対にになっている状態、ワトソンとクリックによるDNAの二重螺旋構造の発表は分子生物学の分野でとても重要な発見でした。

 

(余談ですが、その発表が行われたEagleというPubがケンブリッジにはあります!)

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更にDNAはヒストンというタンパク質に巻き付く形で存在していて、これをクロマチンと呼びます。クロマチンは更に凝縮して染色体を形成し、細胞の核に格納されていています。その結果、私たちの施設計図とも言えるDNAは細胞質とは隔離された環境に保存されています。[3]

 

DNAは細胞の核にある

 

詳しくはまた別の機会に書きたいと思いますが、DNAは設計図であって、その真価が発揮されるためにはRNAという分子へと情報がコピーされる必要があります。この過程を転写と呼びます。RNA分子は次にリボソームという分子の助けを借りて、タンパク質へと「翻訳」されます。

 

「DNA → RNA → タンパク質」

 

この分子を介した情報の流れは分子生物学におけるセントラルドグマと呼ばれています。セントラルドグマとは、直訳すると中心的教義といって(訳すとますます意味がわからないと思ったのは私だけではないはず笑)、誤解を恐れずに言えば生命の真理のようなものです。

 

DNAは設計図ですが、その設計図には生きる中で変化が起こることも知られています。最もダイナミックな変化は遺伝子に変化が起こる(いっぱいコピーしてしまう、あるべきものがなくなる、違う塩基と置き換えられてしまうなど)ことが考えられます。

 

そしてもうひとつ、今回のテーマに重要な変化なのですが、DNA自体は変わらずともその修飾が変化することが生命にとって大きな意味を持つということも多くの研究で明らかになってきました。これは「エピジェネティクス」という一大分野として研究されています。

 

エピは上、ジェネティクスは遺伝学ですので、「遺伝子の上(に起こることを研究する)」というような意味です。エピジェネティクスの衝撃は、世代を超えて遺伝子情報の変化が受け継がれることがあると証明したことです。

 

エピジェネティクスの分子的構造の1つで大切なのは、遺伝子がメチル化されるという現象にあります。[4]

DNA methylation


エピジェネティクスは遺伝子自体が変わることではなく、遺伝子の発現の状態を変化させるものと考えられます。遺伝子はいつも発現しているのが必ず良いことではなく、時と場合によってはメチル化によってsilencedされていることが個体の健康にとって重要であることが知られています。

 

エピジェネティクスの研究で有名なマウスの実験をひとつ紹介します。人間を含め哺乳類はagoutiという遺伝子を持っています。この遺伝子がうまく働かない状態に改変した(メチル化を除去した)マウスは、糖尿病やがんのリスクが高まるだけではなく、毛色が黄色くなることが知られています。agouti遺伝子のメチル化を取り除いた黄色いマウスと、健康な茶色いマウスが持つ遺伝子自体は同じです。違うのは、このエピジェネティックなタグが付いているかどうかで、それが2匹に大きな違いをもたらしていることになります。

Agouti遺伝子がメチル化されるとマウスは健康に近づく

研究はここでは終わらなくて、この黄色いマウスが妊娠して生むマウスは順当に考えるとagouti遺伝子のメチル化が失われた黄色いマウスと予想されます。しかし、黄色いマウスが妊娠しているときに、メチル化に必要な栄養素をたっぷりと含んだ食事をさせると、生まれてくるマウスの多くが茶色の毛並みを持っていて、黄色いマウスに比べて健康に生きるということが発見されました。

 

この研究によって、環境要因(この場合は食事ですが)が世代を超えて遺伝子レベルで影響を及ぼすことが示されました。

 

長々と書いてしまいましたが、このような事実がわかっている今、エピジェネティクスが精神に与える影響について考えるとどうでしょうか。

 

トラウマ的な出来事が遺伝子発現のパターンを変化させて、その「記憶」が次世代、更に次の世代へと受け継がれることがあるとしたら・・・?

 

親や祖父母の経験したトラウマが、何らかの形で、時には無意識のレベルで個人に影響を与えている様子を、著者は繰り返し患者さんの語りや体の状態の中に見出していきます。

 

この考え方はとても衝撃的です。本を通して語られる数々の生きづらさは、親やそのまた親の世代と関連がある、ー例えそれが直接世代間で一度も語られることがなくてもー、そう続きます。

 

セラピーに訪れる患者さんたちは、人生の混乱の中で家族と自分自身を見つめ直します。そして、語るべきストーリーを見つけることで、自分の人生を生き始めることが少しずつできるようになる様子も本の中で描かれています。

 

初めて本を読んだ時、そんなことが本当にあるのか?それが私の率直な感想でした。私たちの心のキャンバスはまっさらで、日本で育てば日本語、英語圏で育てば英語を話すように、心は環境によって生まれた後に形作られると考えていたからです。

 

しかし、話はそんなに単純ではない、ということをこの本は教えてくれました。

 

残念ながら、本の中では章をさいてのトラウマの生物学的な側面についての解説はありません。ただ、本の最後はエピジェネティクスで締め括られています。

 

少し長いですが引用しますと、

"For years, we were used to accepting genetic heritage as fate. Biologists believed that environmental factors had little, if any, effect on DNA and that therefore psychological growth was separated from our genetic legacy. These days, the field of epigenetics gives us another framework for understanding how nature and nurture intermingle and how we respond to the environment on a molecular level. It emphasises that egenes have a "memory" that can be passed down from one generation to the next. ~(中略)~ we realise that trauma can be transmitted to the next generation but also that psychological work can alter and modify the biological effects of trauma. ~(中略)~ psychotherapy can be conceptualised as an "epigenetic drug" since it changes the circuitry of the brain in a manner similar to or complementary to drugs."


訳:長年にわたり、私たちは遺伝的遺産を運命として受け入れてきました。生物学者たちは、環境要因がDNAに影響を及ぼすことはほとんどなく、そのため心理的成長は私たちの遺伝的遺産からは切り離されたものだと考えられてきました。しかし今日、エピジェネティクスの分野は、生得的なものと後天的なものがどのように交錯し、分子レベルで私たちが環境にどのように反応するかを理解するための別の枠組みを与えてくれます。それは遺伝子が「記憶」を持っており、それが世代から世代へと伝えられる可能性があることを強調しています。〜(中略)〜 トラウマが次の世代に伝達されうるだけでなく、心理的治療がトラウマの生物学的効果を変え、修正することができることを私たちは理解し始めています。〜(中略)〜 心理的治療は、脳の回路を薬物と同様に、あるいは補完的に変化させるため、「エピジェネティック・ドラッグ」として概念化することができます。

 

心理的治療とは、多く治療者と患者間で言葉を介して行われるものです。もしこの本で締め括られているように心理的治療と分子生物学的変化の繋がりをもっと明らかにすることができれば、心と体の相互の繋がりについての理解がとても深まるだけでなく、言葉が持つ治療的側面を知ることができるような気がしました。

 

素晴らしい本でした。

 

References: 

[1]KARYOTYPE, National Human Genome Research Institute

https://www.genome.gov/genetics-glossary/Karyotype

 

[2]Deoxyribonucleic acid(DNA), National Human Genome Research Institute

https://www.genome.gov/genetics-glossary/Deoxyribonucleic-Acid#:~:text=Deoxyribonucleic%20acid%20(abbreviated%20DNA)%20is,known%20as%20a%20double%20helix.

 

[3]DNA, Genes & Chromosomes, Cleavelandclinic

https://my.clevelandclinic.org/health/body/23064-dna-genes--chromosomes

 

[4] Nutrition & Epigenome, Learn. Genetics

https://learn.genetics.utah.edu/content/epigenetics/nutrition